うばすてぬ山
こんにちは、土日は家に引きこもり、足の筋肉がヘッテル、腹の肉がフエーテル マネー・ヘッタ・チャンです
某出版社から、こちらのスケジュールとか全く考えてない執筆依頼がありまして、それを書くのに木曜辺りからディーリング、執筆の繰り返しです。まじスケジューリングとか勉強してほしい今日この頃です
さて、そんな感じで久しぶりに物書きモードなヘッタ・チャンですが、隔週連載「毒舌マッチポンプちゃんのマネーのカラクリ物語」を更新しました
「うばすてぬ山」
今回のモノガタリは久しぶりに、書いてて楽しいというと語弊があるかもしれませんがノって書けたモノガタリです
なので、こちらの連載では余り書いてなかった注釈もちょこちょことあります
タイトルの元はみなさんもご存じの「姥捨て山」
年を取ることで厄介者扱いされていた老人が、今では数の力で一番影響力を持ってしまっていることを皮肉ってみました
そして、生まれたからには長生きしたい、健康に生きたいという健全な欲求が集まるとどうなってしまうのかを物語ってみましたので、詳細は「うばすてぬ山」をぜひお読みください
今回のモノガタリは、「大往生したけりゃ医療とかかわるな (幻冬舎新書)」の一説を参考にしています
・「年のせい」を認めようとせず、「老い」を「病」にすり替える
・「病気の80%は医者にかかる必要がない、かかった方がいいのが10%強、かかったために悪い結果になったのが10%弱」
・老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事
・具体的な医療措置に対する個別の意思表示が必要(終末医療について)
・「年をとればこんなもの」と覚られようものなら、病院は潰れる
などなど著者の刺激的な持論が多々あり、死について、老いについて考えさせられました
私個人としては、麻雀漫画の「天 天和通りの快男児」(←超おすすめ)のアカギのように死にたいモノですが、年取ってもその考えでいられるか、まだちょっとわかりません。
モノガタリの参考にした一冊
参考にした一説
170頁 医者にとって年寄りは大事な「飯の種」
生まれたものが成長し、古くなってあちこち傷んでくるのは、自然の流れです。「老い」は自然の過程で、特別なことでも異常なことでもありません。いい方を換えれば、年をとるということは、高齢の障害者になるということに外なりません。
ところが、これまで私たちの同業者がしたり顔で、「年をとっても健康でなければ何にもなりませんよ。健康ほど大切なものはありません。だから、健やかに老いましょう」と脅迫し続けてきました。
しかし、老いるとは、健やかでなくなることなのに、そんなことをいわれたのでは、安心しておちおち年をとれなくなってしまいます。
もっとも、現在の日本人は若さにこだわり、「年のせい」を嫌って認めようとはせず、発達したといわれる近代医療に過度の期待を持ち、老いを「病」にすり替えています。
なぜなら、「老い」は一方通行で、その先には「死」が待ち構えています。
一方、「病」には、回復の可能性かおるからです。
「故障箇所 全部老化で 片がつき」
「悪いとこ みんな老化と 医者はいい」
年寄りの不具合は、すべて老化が原因か、老化がらみです。今さら、医者にかかって薬を飲んでみたところで、若返らせることは不可能ですから、根本的には、どうなるものでもありません。
しかし、治りたい一心で治そうと思ってやって来た医者のところで「年のせい」などという、にべもない言葉は、患者にとっては許せません。
もっとも、医療側も年寄りは大事な「飯の種」ですから、のど元まで出かかった言葉でも、ぐっと呑み込みます。
そして、さらに、老化にもっともらしい病名をつけ、発達した医療に頼れば何とかなるように煽り、期待を持たせます。下手に、「年をとればこんなもの」と覚られようものなら、病院は潰れ、開業医は夜逃げを余儀なくされ、医療関係の失業者が町に溢れます。
民間病院が立派に建て替えられたのも、「お年寄りさま」のおかげです。三拝、九拝、仇やおろそかに思っては、罰があたるというものです。
しかし、よく考えてみてください。テレビや冷蔵庫は15年ももたないでしょう。ところが、人間は60年も70年もそれ以上ももつんです。これは、凄いことだと思いませんか。
だから、「年をとれば、どこか具合の悪いのが正常」なんです。万一、年寄りのくせに、どこもどうもないなら、それはよほど異常というべきでしょう。即刻入院して精密検査を受けた方がいいと思います。
抜粋ここまで