議論・反論嫌いの日本は滅んでもしょうがない


こんにちは、マネー・ヘッタ・チャンです


オレオレ詐欺の被害者が今月また増えたという記事を新聞で読みました。
これほど色々なメディアで取り上げられているにもかかわらずいっこうに被害が減らないのはなぜなのかについてだましの手口とだまされる心理の記事から考えてみたいと思います。


思うに、日本人というのは自分が疑われたというだけで異様に神経質な反応をする人が多い気がします。だから相手を疑うというのは非常に神経を使わざるをえない。


以前コンサルティングを頼もうとある団体にアプローチを取ったのですが、守秘義務についての疑問を投げかけただけで、「そういうことについて疑われるのであれば結構です」といきなり逆ギレされました。


信頼の上に成り立つ文化というものは素晴らしいと思いますが、最低限の確認をする修行をしないまま大人になっている人が多いのもまた事実。


これから殺伐としていくであろう日本で、信頼だけで上手くいくのかヘッタ・チャンは心配しています。
かといって、海外のように何が何でも契約書で全てを予想するというのも疲れるので、良い按配を見つけられたらと思わずにはいられません。



紹介したい言葉


280頁 極東の一部の文化とくに顕著なのは中国と日本では、人前で誰かに食ってかかるのは、不作法で許しがたいことと見なされる。


見かけの調和をたもつことが社会行動で何よりも優先されるこれらの文化において、相手の考えをこと細かに吟味することは、その発言者の人格を批判することにほかならない。伝統的な中国と日本の文化は、どんな主張にも−対立する主張にさえ−真理はある、という考えを奨励することによって調和を維持してきたのだ。


異文化間心理学者のエイラ・ノレンザヤンは言う。「欧米人に、彼らの従来の信念と相容れない主張を提示したら、彼らは単純な論理で、その新たな信念と自分たちの信念のどちらが『正しい』かと自問するだろう。


新たな主張によほどの説得力がないかぎり、彼らは、なぜ従来の信念が正しくて新たな信念が間違っているかの理由をひねりだす可能性が高く、新たな主張にまどわされることはないだろう」。


別の言い方をすれば、彼らは予防接種されるのである。「かたや東アジアの人たちは」とノレンザヤンは続ける。「まったく別の論法を用いるだろう。同様の、自分たちの従来の信念と相容れない主張に直面すると、彼らはすぐさま、その反対意見にもいくばくかの真理があると考え、自分たちの意見を新たな主張のほうに寄せるだろう」


予防接種理論の観点からいえば、つまり中国と日本の国民には、説得的メッセージにたいする抗体をつくる機会がほとんどないということだ。もちろん、極東の考えかたにはいい面もたくさんある。たとえば、日常生活における節度と寛容の伝統をはぐくんできた。そしてたしかに、こうした文化の多くが欧米流の討論法や弁詮術の益を受けずに長らく享受してきた比較的平和な歴史を、軽視するわけにはいかない。


けれども望ましくない説得に直面すると、東アジア人特有の議論・反論嫌いのせいで、これらの文化には憂慮すべき危険な不利益が残される。予防接種の歴史がないため、ごくわずかな毒にも染まりやすいのだ。

抜粋ここまで
(注:紹介のため、改行や行間を一部訂正しています)


マネー・ヘッタ・チャンのモノガタリ


むかしむかし、あるところに議論が苦手な国民がいました。


彼らは話し合うのが苦手なので、複雑な問題になるといつも表面的な解決策で先送りばかりしています。


老後のお金が足りないことも、子供が全然生まれないのも、経済が停滞していることも、抜本的な解決策について侃々諤々の議論をして決めることがありません。


なぜなら、それは誰かを批判するか、自分がされることになるからです。
だから誰も批判しないかわりに、自分もされないぬるま湯でまったり話し合いです


和を持って尊しとするとこの国は先延ばしできるまで先延ばしをして、どうしようもないところまでいってしまい、最後はそれまでの綻びがすべてほつれて、ぐちゃぐちゃになって滅んでしまいましたとさ


めでたくなしめでたくなし