学生は勉強嫌い 社会人は勉強好きの矛盾というか本末転倒ぶり


こんにちは、マネー・ヘッタ・チャンです


あなたは学生時代胸を張って勉強をしたと言えますか?


ヘッタ・チャンはほとんど勉強しなかったくせに、社会人になってから勉強ばかりしています
これは本当に本末転倒で、学生時代にもっと勉強をしておけばと思う気持ちは年々強くなっていきます


昨今、学生の社会起業や学外での活動にスポットが当たる傾向がありますが、学生時代にしっかり勉強をして、その勉強を活かして、社会に出て活躍している人を厚遇した方がよっぽど良いのではないかとだましの手口とだまされる心理を読んでいて思いました。


なんか騙しの手口の本なのに教育について部分が気になってしまった抜粋は以下の通りです。


紹介したい言葉
234頁 大学教授として、わたしはその筋書きを知りすぎるほど知っている。学生たちは、大学に入るまで、支配力の強い外的動機づけにさらされて生きてきたせいで、心の内にあった興味はとっくに萎えてしまっている。


彼らはあまりにも多くの試験や成績にふりまわされてきたので、よほどの変わり者でもないかぎり、学びたいという情熱から授業を受ける学生などいない。


次回は休講にすると学生たちに知らせれば、盛大な歓声と拍手がわきあがる。彼らはかならずしも授業の中身にうんざりしているわけではない。論文や試験などの課題が優先するので、かつて心に抱いていた興味は二の次にされてしまうだけなのだ。


わたしは世界最高の講義を準備し、実行することができるのに、何か質問はないかとたずねて返ってくるのは、「これって試験に出ますか?」。


考えてみれば、ひどく奇妙な話だ。そもそも大学とは、中世に、自分たちだけでは習得できない問題に外部の専門家を雇って協力をあおいだ学習者集団から始まったのである。


教授は学生に雇われ、結果を出さなければクビになった。この関係は、学位をめざさない習い事の状況では、いまでも生きている。たとえば、生涯学習のクラスでは、講座の最後に成績評価表に記入するのは生徒たちであって、講師ではない。


ところが大学では、評価の矢印の向きが反対だ。学生がわたしに月給を支払うにもかかわらず、わたしは彼らの勉強ぶりを判定する。私立大学における平均的な教育費は、ひかえめに言っても一単位あたり七五〇ドルだ。一回の授業に換算すれば約五〇ドル。たびたび思うのだが、学生には学期ごとの授業料を払わせるよりも、一回の講義ごとのチケットを買わせるべきなのではないか。


かりにその額をロック・コンサートに払うとして、公演は中止だと発表されたら、いったい何人が歓声をあげるだろう。しかし、それこそ、学生たちが外的な報酬を詰めこまれすぎるときに起こっていることなのだ。学習への情熱は、いつのまにかあらかた失われている。
抜粋ここまで
(注:紹介のため、改行や行間を一部訂正しています)


マネー・ヘッタ・チャンのモノガタリ


むかしむかし、「構造改革なくして成長なし」「改革には痛みが伴う」という言葉を熱狂的に支持した村人がいました


しかし構造改革がなされて実際に痛みがやってくると自分らが支持したことを忘れて、改革という言葉を聞くだけで拒否反応を示すようになりました


そのうち、それに関係があるものを聞くだけで嫌になり、次の選挙では全く逆の団体を熱狂的に支持することにしましたとさ


教訓 最初は自分が望んだものだったことを忘れるのが大勢の人
ファシズムは大衆の熱狂から生まれることを忘れてはならない