競争を強化しても学力はあがらない → 街場の教育論


こんばんは、マネー・ヘッタ・チャンです。


8月の第一週も無事終わり、来週から会社が休みの人も多いと思います。


残念ながらマネー・ヘッタ・チャンは、金融機関勤めなので、暦通りに来週も再来週も会社に行きます。
戦い続けないと生き残れない金融業界に少し疲れたりしながら…


さて、そんな常に戦い続けるマネー・ヘッタ・チャンですが、競争をし続けると能力はあがるということに対して、最近疑問を持つようになりました。


というのも街場の教育論で、競争社会の悲劇的な帰結について、説得力のある文章を読んだからです。


よくある競争論や努力論には、人間の嫉妬やひがみ、そねみといった後ろ向きな感情についての考察がなく、清々しいマンガのような展開になりがちですが、実際の社会はまったくそうではありません。


実際は今回紹介する文章のように「自分ひとりが相対的に有能で、あとは自分より無能である状態」を理想とすることがしばしばです


そういった現場からの競争と教育についての著者の考えをもとに、われわれはどうあるべきかを、最近ちょっとだけ考え始めたマネー・ヘッタ・チャンでした。


紹介したい言葉
106頁 競争を強化しても学力はあがらない
 今の日本では、学力の向上は「競争」を通じて達成される、と上から下までみんな信じています。たしかに、個人の学力は競争を通じて向上させることができます。


けれども、「競争に勝つ」ことのたいせつさだけを教え込んでいたら、子どもはいずれ「自分ひとりが相対的に有能で、あとは自分より無能である状態」を理想とするようになります。


「相対的に」というところが味噌です。


「今ここでの競争に勝つ」という点に限れば、自分の学力を上げることと、競争相手の学力を下げることは、結果的には同じことだからです。


そして、ほとんどの子どもたちは「自分の学力を上げる」努力と同じだけの努力を「競争相手の子どもたちの学力を下げる」ことに投じます。
もちろんおおかたは無意識的に。それでも、子どもたちは実にこまめに競争相手の知的パフォーマンスが向上することを妨げようとします。


例えば、学習塾で学校で習うより早く教科を進んだ子どもは、しばしば学校で自分が習った単元の授業の妨害をするようになります。立ち歩いたり、歌を歌ったり、隣の子に話しかけたりする。自分はもうわかっていることだから、退屈しているんだな」とふつうは解釈されますけれど、違いますよ。彼らは授業妨害をすることで、競争相手の学力を引き下げようとしているのです。


うちの大学はセンター試験の会場を提供しているので、その試験監督をすることかありますけれど、この試験会場の休み時間には、出身校が同じ受験生からか群れをなして、けたたましい笑い声をあげて、最後の瞬間まで参考書に赤線を引いて勉強している他校の受験生を妨害している風景に毎年お目にかかります。


むろん、受験生たちは自分かそんな「えげつないこと」をしているとは気づいていません。それほどまでに「寸暇を惜しんで、競争相手の勉強の邪魔をする」というマナーは彼らにとって血肉化しているのです。


競争を通じて学力の向上を果たそうという教育戦略は、結果的に全員が全員の足を引っ張り合うという『蜘蛛の糸』的状況に行き着きます。


これは誰が悪いというのではなく、論理の必然です。そして芥川龍之介の物語の結末の通り、全員の学力は底なしに下がってゆくのです。
抜粋ここまで
(注:紹介のため、改行や行間を一部訂正しています)


マネー・ヘッタ・チャンのモノガタリ


むかしむかし、あるところに結果が全ての国がありました


一番になれば、とにかくえらいのです


その国では、はじめ一生懸命に、自分を高めることに時間を費やしていました


早く走れるように、沢山走ったり
歌を上手く歌えるようにと、色んな歌を歌ったりと


その国はみんな頑張って成長していたので他のどの国よりも裕福な国でした


ところがある日のことです、みんなが自分が頑張って成長するより
相手の足を引っ張って勝つことのほうがずっと楽だと気づいたのです


それからというもの、いかに相手の足を引っ張ることかばかり考えるようになりました


その結果、誰もが努力をしなくなったので、どんどん国は貧しくなり
ついには他の国に攻められて征服されてしまいましたとさ


めでたくなしめでたくなし


この物語の教訓  他人の足を引っ張るのにかまけると自分が成長しない、なまじそれで勝っても、まったくべつのところで大きく他の誰かに抜かれる